花は萎まぬうちこそ花である

 君、今すぐ太宰の駆け込み訴えを読みなさい。太宰は天才か。宗教二世、特にキリスト教の二世は必ず読め。読んでから死ね。

 これは、キリストを売る男の話だ。わかる奴には読めばすぐわかるだろう。サタンはやはり面白い方である。賢い方であって、そしてユーモラスだ。読んでいくうちに、私は美しい愛の、狂気にすらなりうる危うさを思った。こんな話をかけるのは後にも先にもこの男しかいないだろう。ユダはサタンの被害者だ。彼もきっと、このお方の力にかからなければペテロやヨハネたちとなんら変わらぬ弟子たちの一人となったろう。かわいそうに!ユダのことなど一度も気にかけたことはなかったが、今日初めてこの男を愛おしく思った。ユダの愛は、果たして純粋を越えたもののようだが、なんにせよ強い思いだったに違いない。一種の同性愛だ。キリストを美しいままにしたい、それが理想像なのだ、枯れる前に摘まなくてはならない。

 やはりこの男は天才なんだ。知識量から違うんだ。この人の文章を読むと、手のひらの上で転がされているような気になる。怒りと愛と、穏やかさを望む気持ちと、悔しさ、悲しみ、色情、そういうさまざまな心の移り変わりを見事に書いている。(こんなありきたりな表現しかできないのが心底悔しい)もし私があの時代に生きていて、太宰に手紙でも送りつけようものなら真っ先に嫌われたであろうが、嫌われてももう構わんかもしれない、私は本当にこの男の書き物が好きだ。

 関係ないが、ペテロはやはり可愛い男だと思った。みんなもそう思うだろ。海上を歩くキリストを見て、真っ先に水の上を歩こうとしたという話など、この男はやはり可愛いと思う。太宰も、ペテロを一徹者だと言って、純粋な少年のように描いているし、この解釈はどうやら皆同じらしい。

 ある絵が思い浮かんだ。美しい、まさに神の御子と言った顔で静かに眠るキリスト。カバネルの堕天使の絵画のような真っ赤に充血した目で、しかし歪んだ微笑みを浮かべるユダ。銀貨を入れた麻袋がそこらに捨てるようにおいてある。ユダはキリストを抱いている。ピエタ像のように。しかし力の入った手は御子の体に醜い爪痕を残している。独占欲の現れとして。背後には黒い一頭の山羊。よそよそしい。全く他人事。しかしことの一切を知悉している。二人の前には例のペテロがいるのが良いだろう。疑いを知らないまっすぐの瞳で、目の前の状況を飲み込めないでいる。

 こんなふうに何のトラウマも感じず幼い頃に習ったキリストと十二使徒の話を思い返したりしているということは、私はやはり恵まれたお嬢ちゃまなのだと思う。

 最後に関係ない話をするが、君、ダヴィンチコードを見なさい。と言って私は映画しか見てないが。アメリ役もやっていたオドレイ・トトゥはやはり名女優だった。アルビノの男が身体を傷つけまくりながら祈るシーンには圧倒されたし、この男と司祭だかの話は胸に迫るものがあった。お前は天使だ、という台詞は美しいね。君たちも私の天使だ。こんな汚らしいもの読んでくれてありがとう。


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