水は器に従う

 これは太宰のダスゲマイネという話の最後の部分。作中で唯一理解できた部分。頭が悪いので。主人公さのじろを好きな菊ちゃんが、さのじろの友人馬場に言われた言葉。さのじろが消え、馬場は菊ちゃんにお金を渡し、これできれいな服を買え、そうすればさのじろを忘れるだろう、水は器に従うものだ、とかっこいいこと言う。本当の慰めなのか、ただ女を馬鹿にしてるのかはわからないけど、なんだか信憑性のある言葉に聞こえる。

 この話、最後の畳み掛けが面白くて、ぜひお勧めしたい。馬場は面白いやつだし、佐竹も憎めない。太宰もきっといいやつなのだ。気の弱いさのじろはこういった自我の強い青年たちに囲まれて、最後にはアイデンティティがわからなくなってしまうわけだが、これは現代の青少年にも通ずるところがありそうにも思える。画面の向こうの名前も顔もわからない大人たちが喋ることを、あたかも人生の教訓かのように信じ込んでそれに従う。これは一般論として片付けるべきではない。君や僕のことなのだ。知らない大人が吐き出した思想にもならん日常のぼやきが、言葉も世界も知らない僕たちには深い意味を持った大説のように見えている。そうして勉強もしないままこう言ったことを盲信し、ふと気がついた時には自分が誰だかわからない。自分は常に誰かの真似をしているような感じがして空虚だ、みたいなことを言っていた人がいたが、他人事ではない。この人は気づいてるが、気づかないままでいる10代は多いだろう。

 などと馬鹿が変な理屈をこねくり回して警句めいたことをほざいているだけなので、格段耳を傾けるような内容ではない。君たちも勉学を怠るな。変なプライドは捨てなさい。三島の、金閣寺の鶴川のようにあろう。僕も鶴川が理想像です。全世界の全てを明るく美しいものと勘違いして生きたいものだ。


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